海の日

地獄で生きる

四月七日

最近ひとり暮らしを始めた。人生で二度目の一人暮らしです。一度目は失敗したので二度目は一度目の失敗を活かしていろんな物件サイトを見てここはだめだここは良いでもあれがだめだとかなんとか言って、友だちに一緒に不動産屋さんについてきてもらって決めた部屋に住んでいる。もうなんの問題もない。壊れていたトイレもエアコンも新しいものになったのでラッキーという感じだ。住みはじめて一週間、エアコンも暖房器具もなかったのでとても寒かったけれど。もうそんなことはどうでもいいのだ。わりと快適な部屋でわりと楽しく過ごしている。

ひとり暮らしを始めたのは仕事が変わったからで、ほんとうは今の職場ではなくて前の職場で今の仕事をしたかったのにだめだったので今の職場にいる。今の職場は快適ではない。いろいろと覚えることがたくさんあるし、なにより前の職場と勝手が違いすぎるのでわけがわからない。同じ職種なのにこんなにも違うのかとびっくりしてしまう。それにひとり暮らしが加わって大変なことになっている。でもがんばらなければならない。もういい大人なので。

わたしはいつから大人になったんだろうかと最近はよく考える。職場の大人、というか、職員の人は苦手だ。大人だから苦手なのかもしれない。じゃあまだ子どもなのだろうかと思うけれどそんなこともないのだろうと思う。わたしはいつのまにか「大人なんだから」「子どもじゃないんだから」と言われるような年齢になってしまっている。おもしろくもないのに笑って大変だけど大変とは言えなくて言われたことには「はい」としか言えなくなったのはいつからなんだろうかと思うけれど、考えても仕方がないのであんまり考えないようにしている。かなしい。

今の職場は嫌味と妬みがいっぱいではなくて、専門性だとかあれはだめとかこれは良いとか、そういうのにまみれている。わたしは専門性がないのでよくわからないことばかりだ。よくわからない言葉が飛び交って、よくわからない知識をみんなが披露し合っているのをニコニコ笑って黙って聞いてる。そんな感じで一週間が過ぎた。明日からもそんな感じで一週間を過ごすんだと思う。ほんとうは今すぐ辞めたい。わたしにはこの仕事が向いていないとこころの底から思う。専門性もないし、言葉も知らないし、よくわからないことばかりだし、まわりの大人との付き合い方すらわからないのだ。そもそも職場は学校なんだけれど、学校という場所が昔からすきではなかったのだ。学校という仕組みがそもそもわからない。勉強するなら好きな人が好きなようにやればいいし、それをあれこれ指図されるのが嫌いだった。運動会も学芸会もプールも体育も遠足も教室も全部嫌いだった。おんなじ年代のみんな学校が楽しいと言っているのが信じられなかった。運動会を楽しみにしていたり、遠足を楽しみにしている気持ちがよくわからなかった。日曜日が憂鬱だった。いじめだって入学してからすぐに起こったし、卒業するまでずっと続いた。でも先生は見て見ぬふりをしていた。わたしも被害者になったり加害者になったりしたこともある。女の子はピンクで男の子は青という分けられ方をしたことだってある。わたしはそのころ青が好きだったから男の子が羨ましかった。先生が勝手に考えたダンスを好きでもないのにやらされて運動会で発表したことだってある。そういうのが全部嫌いだった。今でも嫌いだ。これはわたしが大人になれないからなのか中二病というやつなのかわからないけれど、それからずっと学校が嫌いだ。

でも学校が嫌いな先生も必要だよ、と言われたことがある。学校の先生は学校が好きな人間ばかりだから学校が嫌いな子どもの気持ちがわからないからだそうで。でも学校の先生は学校が好きな人間ばかりなので職場がひどくつらい。みんな学校は楽しいものだと思って生きている。ほんとうのことを言うと、ばかみたいだと思う。学校が楽しいと思っている子どももそりゃあいると思う。家に帰ってまず学校であった楽しいことをしゃべる子どもだって、月曜日が待ち遠しくて金曜日の夜からソワソワしているような子どもだってそりゃあいるのだろう。でもそんな子ばっかではないのだ。わたしみたいに早く金曜日になってくれとこころの底から思ったり、月曜日が憂鬱だった子どもだっているはずなのだ。そのことがわからない人間が多すぎる。

大学に行く前とか、行っている途中だとかは「わたしが学校の先生になって、学校が楽しくないと思っている子を支えていきたい」みたいなことをばかみたいに考えていた。でも教員採用試験を受けるための面接練習をしたり、いざ学校という職場にはいったりすると、そんなことは到底無理なことを思い知ってしまった。わたしひとりがどうこうできることではないし、さっきも書いたけれど学校の先生というのは学校が好きな人間とか、先生に助けてもらったからそんな先生になりたいだとか、そういう人間がなるものなんだとわかってしまった。まわりの先生を目指していた人間にはいじめられているのを見て見ぬふりしていた先生には出会っていないし、学校が嫌いな人間はいなかった。みんなひとりでぽつんとしている子どもにどうやって友だちをつくってあげようとか、不登校の子どもをどうやってなくそうだとか、そんなことばかりを考えていた。わたしみたいな考えを持っているのは異常で、おかしいのだと思い知った。そのときからずっとわたしは学校の先生という職業に向いていないのだという思いが強くあったけれど、子どもと関わるのはすきなのでだらだらと続けて、いざがつんと「学校の先生」になった途端、こころが折れてしまった。ここにいる大人はきっとわたしとは違う大人なのだ、という思いがとても強くなった。わたしがおかしいということを毎日職場に行くたびに感じる。それでもここで辞めたらだめだということはわかっているので、ちゃんと毎日朝には起きて夜には寝て職場に行く生活をしている。

金曜日は悲しいことがあって、それはわたしには直接関わりのないことだし個人の考え方の問題なのだろうけれど、それでも悲しくなってしまった。でもそういうことがこれからたくさん起こるのだろうと思う。女の子はピンクだとかフリルとレースが好きだとかかわいいものが好きだとか、男の子は青だとかかっこいいものが好きだとか、そうでなくてはだめということは絶対にないのにそうじゃなくてはだめだ、それから外れるのはおかしい、みたいなことが起こるんだと思う。金曜日に起こったのはそんなようなことだった。なんでもその子の好きなものが好きだと言えるような世の中になるにはまず学校とか幼稚園とか保育園とかそういうところの「大人」から変えていかないとだめだろうに、大人がそんな考えを持っていたらきっと何も変わらないままになってしまうと思う。でもこのことについてわたしができることはなにもないのだ。直接かかわりのないことだというのもあるけれど、結局のところわたしは現実世界ではなんでも、おかしいことにも「おかしい」と言えないような人間だからだ。「そうですね」「そうだと思います」「わたしもそう思います」としか言えない。嫌われたくないからだ。嫌われて、孤立するのが怖いのだ。

また明日から一週間が始まる。今から憂鬱だけれどがんばらなければならない。はやく学校が嫌いな子でも、運動会が嫌いだからズル休みしても、男の子がフリルとレースが好きでも、女の子がかっこいいものが好きでも、なんにも言われないしなんにも言われない世の中になってほしいと思う。つづく。