海の日

地獄で生きる

六月四日

六月はわたしのなかでよくない季節で、記憶の中にある六月の思い出は大抵よくないものばかりだ。泊りがけの実習も仲のよくない同級生との実習も熱を出していたのに悪口ばかり言われた実習もおばあちゃんの容体が悪くなったのも仕事をやめたのもはじめて精神科に通いだしたのもぜんぶ六月。なので六月は毎年体調が悪くなる。今年もそれは変わらずで、今が何年なのかわたしが何歳なのか今何をしているのかわからなくなってしまう日が多くなった。薬を飲んでもなにをしてもだめなのでもうだめなんだとおもう。

六月はだめだ。

それはそうと新緑のにおいがわたしは苦手で、それはなんでだろうと思ったときに小学生のときの記憶が出てきた。小学生のわたしは一時間弱かけて学校に歩いて通っていたのだけれど、そのときによく猫がしんでいる道があった。木がたくさん生えていて、少し薄暗くて、小学生ふたりが並んで歩いたら窮屈になるくらいの狭い道だった。その道で猫がしんでいる時期は毎年大抵この時期で、新緑のあのにおいと、猫の腐っていく過程のにおいと、腐りきった後の腐敗臭みたいなのが混ざってなんとも言えない気持ちになっていたのを覚えている。こころのなかでえんがちょをしながら、できるだけ見ないように歩いたけれど、においだけはずっと残っているんだなあと思った。なので新緑のにおいはいいものだと言われてもわたしはいまいちよくわからない。そのにおいをかぐたびにいつも薄暗い道でしんでいた猫のことを思い出す。

最近は自律神経がおかしいと言われてしまったので毎日散歩をしているのだけれど、そこでも動物がしんでいるのを見てあーあと思ったりしている。でも小学生のわたしみたいにこころのなかでえんがちょはしない。ただこころのなかですこしだけ「あーあ」と思うのだ。あーあ。見ちゃったなあ。それくらい。なんにも思わないというのは違うけれど、昔みたいにこころが動かされるようなことはない。ただそこにあるものをそこにあるように感じるだけだ。それは「大人になった」ということなのかもしれないけれど、そうじゃないかもしれない。わたしにもよくわからない。無意識になにも思わないようにしているのかもしれない。つづく。