海の日

地獄で生きる

十二月一日

今日はいつもは使わない道を使った。その道はわたしが通っていた高校への道で、使うたびに高校生のときの思い出がよみがえってくるのであえて使わないようにしていたのだけど、今日は時間の都合でその道を使ってしまったのだ。

わたしが通っていた高校はちゃんとあるけれど、わたしが着ていた制服はもうない。卒業して二、三年後に、わたしが通っていたときからぼんやりとあった「制服を現代に合わせたものに変えよう」という運動が本格始動して変わったらしい。どうせならわたしが通っていたときに変わってくれたらなあ、と思ったけれど、制服で選んだ高校じゃないのですぐに「まあいいか」という気持ちに変化した。それでも、わたしの着たことのない制服で、三年間通っていた道を歩く彼女たちに「いいなあ」と思わないわけではない。わたしが着ることができなかったプリーツスカートの制服はとてもかわいいものだった。

そんな彼女たちのことを見て、わたしは、最近まで自分で自分のことを「かわいいはわたしには似合わないから避けておこう」と呪ってたなあ、ということに気がついた。正確には彼女たちをみたから気がついたわけではないのだろう。その前にやっていた精神科での検査がきっかけだったかもしれないし、もともと蓄積されていたものがふと溢れたのかもしれないんだけど、とにかく長い間わたしはその呪いに囚われ続けていた。その呪いの話です。

自分の幼いころのアルバムを見たことがあって、そこにいたわたしはすべて髪の毛が短かった。それはわたしの家族の趣味で、わたしの髪の毛が肩につくくらいになると近所の個人でやっているおばあちゃんの知り合いの美容院に連れていかれていた。身長が他の子よりも大きいこともあったせいか、幼いころのわたしは「かわいい系」の洋服を着ている写真があまりない。小学一、二年生のときにお母さんと旅行した際に、男の子と間違えられたこともある。そんなことがあったからかどうなのか、わたしは「かわいい」を選ぶことはあんまりなかった。好きな色は青。髪の毛はずっと短くして、洋服に興味はない。

それが変わったのは中学生くらいのときで、わたしははじめて髪の毛を伸ばした。家族からは不評で、「短くしろ」だの「長いのは似合わない」だの言われていた。色付きのリップを初めて買ったときも、「やめろ」と言われ、高校生のときに買ったマスカラは家族に見せず、知られないように出先で使っていた。

わたしは長い髪の毛に憧れていた。でもわたしに似合わないと思っていた。それでも伸ばしてみたかった。そんなことを思いながら中学校の同級生が誰もいない高校に入学して少したったときに、同じクラスの同級生が読んでいたロリィタやゴシック、パンク系のファッション誌を見て、わたしの求める「すき」はこれだ、と思った。高校から駅までの道にある本屋さんでその雑誌を買い、自宅に帰ってから読んだ。その雑誌に載っているものすべてがはじめて見るもので、パステルカラーの洋服たちはすべてかわいかった。わたしはその雑誌の中の「ロリィタ」がすきで、そのなかでも「甘ロリ」がすきなのだとわかっていた。けれどそれを高校生のときに人に言ったことはない。その雑誌を見せてくれた同級生にも言っていない。

わたしには似合わないと思ったのだ。そのお洋服たちに、わたしはふさわしくない気がした。

雑誌の中でロリィタ服を着ていたモデルさんたちは、みんな身長がちいさくてかわいくて、髪の毛が長かった。わたしと真逆な人たちだ。次の日、同級生に「どうだった?」と聞かれて、わたしは「パンク系が好き」と答えていた。それからずっと、わたしはわたしに呪いをかけ続けていた。洋服は白か黒。持ち物も、時々耐えきれずにかわいいものを持つけれど、基本はかわいいに振り切れていないものを持っていた。

大学生になって、呪いはすこし薄れて森ガールのお洋服を着ることができたけれど、それでもいちばん好きなお洋服は淡いピンクや水色などの甘ロリ系のお洋服のままだった。欲しいお洋服はいくらでもあったのだけれど、そのお洋服に「ふさわしくない」わたしがお洋服屋さんに行って店員さんに変な目で見られたらどうしようという気持ちがずっとあって、行けるのに行けない状態だった。

それでも生活をするうちに呪いはまたもうすこし薄まって、わたしははじめてロリィタ服をお迎えすることができた。少しずつわたしはわたしの呪いを解いている。それでも呪いはまだあったので、お迎えしたお洋服は淡いピンクでも水色でもなくて、茶色のお洋服だった。店員さんは優しくて、明らかに場違いなわたしに対してもていねいに教えてくれたけれど、それでもすきな色をすきとは言えずに終わった。茶色も好きな色ではあるけれど、いちばんではない。それでも初めてのお洋服は嬉しくて、何枚も写真を撮った。何回も部屋で試着をして、少ないお洋服の中で何とかコーデを考えていた。

楽しかった。少しずつ世界に許されているような気がした。それからお迎えしたお洋服を着て出かけるまで長い時間がかかるのだけれど、はじめて出かけたとき、知らないすれ違っただけのおばあちゃんに「かわいいね」と言われたことで、またすこし呪いは薄くなったと思う。それでもまだピンクをお迎えすることはできなかった。好きな色を聞かれて、いちばん好きな「薄いピンク色」ではなくて、好きなキャラのイメージカラーを答えていた。

でも着実に呪いは薄くなって、知らないおばあちゃんに言われたこともあってか、わたしは車を買うときにいろんな理由をつけてピンク色にすることができた。このときも家族には反対されたけれど、自分の意思を通すことができた。時々だけれど、前よりも多い頻度でロリィタ服を着て出かけることができるようになった。もうその頃にはわたしの洋服やら化粧やら髪の毛やらに家族もなにも言わなくなって、わたしの世界は昔よりもだいぶわたしが生きやすい世界に変わっていった。世の中も髪の毛が短いロリィタさんや身長の高いロリィタさんが多くなったのも関係していると思う。

そうやって薄くなっていった呪いだけれど、わたしが正直に目の前の人間に対して「好きな色は薄いピンク」と言えたのは今年の十月末くらいのことで、それまで長々わたしはわたしの呪いに苦しめられていた。薄いピンクと水色のお洋服をお迎えできたのは去年のことで、水色のお洋服は着ることができたけれど薄いピンクのお洋服はまだ着ることができていない。それでもロリィタではないお洋服で、くすんだピンクのお洋服を着ることはできた。これから薄いピンクのお洋服を着ることができるのかはわからないけれど、それでもかわいいものを堂々と持てるようになったのはとても嬉しいことだと思う。つづく。

十月十三日

仕事を辞めた。九月の上旬だった。安定剤の飲みすぎで縁石に乗り上げてタイヤが破損、通っていた精神科の主治医からも母親からも「入院しなさい」と言われ、しかたなく仕事を辞めた。九月の、友だちの誕生日の日だった。

結局「人の入った風呂に入りたくない」のと「「わたし(ぼく)こんな悲しいことがあったんです」って話さなくちゃいけない場があるところになんて入院できるわけがない」というわがままで入院は無しになったが、その代償として精神科を変えさせられ、九月の記憶がほとんどない。なので、なぜそんなに安定剤を服用しながら仕事をして自損事故を起こしたのかの記憶がない。同居人が一回目のワクチンの副反応で苦しんでいた、熱が出たんだ、というのも記憶がなく、どうやって看病したのかもわからない。

九月はわからないことだらけだ。

病院は変わったが、まあまあいいところに転院になったのでわたしにとってはいいことだった。前の病院には七年通ったが、結局病名を教えてくれなかったのであまり好きではなかった。今のところは「わかったら」教えてくれるらしい。その先生が言うには、「精神の病気はいろんなことが複雑に絡み合っているのでその場で「はいこれです」って言えないんだよ」と穏やかな口調で言っていた。そういうものなのか? と思いながら聞いていたけれど、わたしはずっと泣いていたので「そうですか」としか言えなかった。病院ではいつも泣いてばかりいる。

記憶がないのは九月だけではなくて、本当は大学以前のこともあいまいだ。時々覚えていることがあるが、それだって「なんでそこ覚えてるんだろうね」ということばかりで、基本の思い出は写真の中にしかない。多分高校までの記憶は両手で数えられるくらいしかないんだろうと思う。それが毎日が単調だったからか、思い出したくもないからなのかはわからない。病院の先生には「九月はきっと単調に日々が過ぎてたからでしょうね」と言われたけれど、そんな単調だったのかなあと思う。昔の記憶がないことは、「あまり思い出さないようにしましょうね」と言われた。しまっとけと言うことらしい。思い出したらきっとそこでわたしの精神のなにかが壊れるんだろうなとは思う。

そんなことがあって、でもなんとか生きているのできっとこれからもこうやって運だけで生きていくんだろうなと思う。仕事を辞めたので本当はもっと忙しく仕事を探さなければならないのだけれど「半年はゆっくりしてね」と前の主治医に言われたのでのんびりしようと思う。最近は本を読んで過ごしています。つづく。

憎しみについて

※すべてが個人の意見です

 

ばあちゃんは、ばあちゃんが信じていた宗教に殺された。

本当は違うかもしれない。でもわたしのなかではそうなっている。ばあちゃんは確かに末期の肺がんだった。肺がんで死んだ、というのがほんとうかもしれない。でもわたしのなかでは確かに「ころされた」のだ。

ばあちゃんはずっとおんなじ新興宗教を信仰していた。わたしやお母さんには無理強いすることはなかったけれど、毎朝毎晩「お祈り」をして、時々宗教の本部に行って強めの「お祈り」をしたり、お札やお守りをもらってきていた。そのお守りをわたしやお母さんに渡していた。お守りをつけることは強要しなかった。わたしが風邪をひいたときは、念が込められているというお菓子をひとかけら食べさせていた。わたしはそれら全部が嫌いだった。

これと言って、嫌いになる明確な理由はなかった。けれど、物心ついたときからばあちゃんがなにか言いながら「お祈り」をする姿や、熱でうつろになっているときに食べさせられたお菓子の味が嫌いだった。もらったお守りはどこかにしまい込んで、見えないようにしていた。きっとまだ実家のどこかにあるのだろう。「かみさまの部屋」と言われていた、神棚がある部屋が嫌いだった。見ないように、見えないように、わたしはその宗教と一線を引いていた。お母さんもそうだったと思う。

それが変わったのは、わたしが高校生になったときだった。

ばあちゃんに肺がんが見つかった。毎年レントゲンを含んだ健康診断を受けていたはずだったのに、心臓の裏にちょうど隠れて見えなかったのだという。見つかったときはもう末期だった。即入院だった。バタバタと物事が進んで、それと同時に、じわじわとわたしの家族に宗教が入り込んできた。

いままであまり関わりのなかったはずの近所に住んでいる、同じ宗教を信仰しているという人が、いつのまにかわたしたちに近づいていた。わたしがそれに気がついたのは、もうわたしたちのなかに入りこんだ後だった。ばあちゃんは治療を受けながら、よくわからないお酒を体につけていた。一目見て、これは宗教のものだとわかった。実際にそれは宗教のものだった。いつのまにか入りこんでいた、近所に住んでいるひとが持ってきたのだろう。

効くはずがないと思った。実際に、お母さんに「何の意味があるの?」と聞いたこともある。お母さんは「ばあちゃんの気がまぎれるならそれでいいよ」と言っていた。それならしょうがないかと、そのときはなんとか気持ちを落ち着かせた。けれど本当は違っていて、近所の人は「これでがんが消える」と言っていた。それを知ったのは、ばあちゃんが死んだ後だった。

消えるわけがないんだ。そんなんで消えるなら病院も薬も治療もいらない。宗教でなんでも治せるなら、コロナだってここまで流行ってない。なんにもできないくせに、嘘をつかれた。ばあちゃんがそれを嘘だと思っていたかは知らない。なんとかすがりたかったのかもしれない。お母さんが言っていたように、気を紛らわせたかったのかもしれない。結局治療は途中でやめて、ばあちゃんは家に帰ってきた。よくわからないお酒を体につけることだけは続けて、家に帰ってきてから一週間後に死んだ。

病院にいたらもっと生きれたかもしれない。そう思った。わたしはばあちゃんに少しでも長く生きていてほしかった。あの、意味のわからない宗教に頼らないでほしかった。あれがなければずっと治療を続けていたのかもしれない。そう思うと腹が立った。はじめて人間をここまで憎んだ。そのとき、ばあちゃんは、ばあちゃんが信仰していた宗教に殺されたのだと思った。それしかありえないと思った。

ばあちゃんが死んでも他の人から見たらただの高齢者なので、わたしは学校に行かされた。その間にだったか、どこだか、わたしがいないときに近所の宗教の人がお母さんに近づいていた、らしい。お母さんはいつのまにか、その新興宗教にのめりこんでしまった。

ばあちゃんがやっていた「お祈り」をするようになった。お札が玄関にあるようになった。家の中に宗教のカレンダーが飾られるようになった。一か月に二、三回は宗教の本部に行っていた。わたしの名前も勝手に書かれた。近所の宗教の人が家に来るようになった。

許せなかった。許せなくて、何度も宗教をやめてくれと頼んだ。わたしにとってはその宗教がしていることは人殺しだ。近所の宗教の人にも、もう来るなと言った。でも宗教をやめてはくれなかった。近所の宗教の人も、なんべんも来た。

もうだめだと思った。わたしが死ねばいいのかとなんべんも思った。安定剤を一気に大量に飲んで何度も倒れた。手首や太ももを何度も切った。血が沢山出て、このまま死ねると思った。死ねなかった。でもそうすれば、そうすればさすがに洗脳されているお母さんだってわかってくれると思った。でもわかってもらえなかった。わたしが死ななかったからかもしれない。お母さんは、人殺しの宗教のことをずっと信仰したままだった。ばあちゃんのことを殺した人間のことを信じていた。

きっともう、わたしのことはどうでもいいのだろう。お母さんには宗教しかないのかもしれない。もういっそ近所の人を、と思って、何度も実行しようと思って、できなかった。それよりもまだわたしが死んだほうがましだろうと思ったからだ。

ばあちゃんが死んで、わたしも死ねば、さすがに洗脳も覚めるだろうと思う。人殺しを擁護するようなこともないと思う。そう思って病院に行って、全部話して、もうなんでもよくなってしまった。今はもうわたしが死ぬことによってお母さんの洗脳が解けるなら今すぐ死んでもいい。もう疲れてしまった。11年間、人殺しに苦しめられているのだ。頭がおかしい。狂ってる。人をだまして、殺して、のうのうと生きている人間が信じられない。人殺しのくせに。

八月二十四日

帰宅途中で、ご両親が外国のかたであろうお子さんを見た。お子さんはひとりで大きなラジコンで遊んでいて、わたしはその光景を見たときに「友だちがいないのかな、かわいそうだな」と思った。

でも帰宅してしばらくたって「いやあの考えはおかしかったな」と思った。もし、ひとりで遊んでいたお子さんが外国のかたではなかったら。わたしはきっと「今日はたまたまひとりなんだろうな」とか「保護者はどうしてるんだろうな」とかを思っただろう。もしかしたら「虐待されてるかも」と思うかもしれない。夕方の五時くらいの歩道にいたので。でもそんなことは思わなかった。たぶん、見たお子さんのご両親が外国のかたであろうと思ったから。

偏見をなくそうとか間違った見かたや偏った見かたは止そうとか、男性だからとか女性だからとか、そういった見かたをなくそうと思って気を付けていても結局は根本を変えないとどうにもならないんだなあと思う。育った環境も家庭も関わってくると思うし。わたしは女装している男性が女子トイレに入ってきたら「いや違うじゃん」と思う。でもその女子トイレに入ってきた女装している男性の中ではそれが「正しい」ことなんだろう。たとえが悪いけど。これはたぶん違う案件だけど、宗教を信仰している人が「これは神さまの水です」とありがたがっているのと、それを冷めた目で見ちゃうような違いなんだろうけど。たぶんこのたとえはおかしい。でも見えかたの違いって、簡単に言うとそういうことなんだろうなとわたしは思う。

なぜだかひとつ前の日記がたくさん読まれていて、昨日はずっとびっくりしていた。今まで来たことないはてなからのメールが来るし。pixivにあげてる文字よりも見られてるし。気持ちの悪いオタクのフェスとラッドに対する愚痴だったので申し訳ない気持ちになりながらツイッターを見た。読んだ人からの意見が肯定的なものばっかりじゃないってことは同人をしている上で重々わかっていることだったけど(今回のは文字でもないただの愚痴だし)久々によくわからないことを書かれてしまって友だちに助けを求めてしまった。そのツイートはわたしの意見のまとめじゃない。

その人にはその人の意見があるし、わたしにはわたしの意見がある。その人の見ている世界とわたしの見ている世界は違うってこともわかってる。わたしの書き方が悪かったところもあることもわかってる。わかっているけど、わたしは怒ったり悲しんだり悔しくなったりする。違うことには「いやそれ違うんですけど……」って言いたくなる。ので、完全に蛇足なんだけど、書きます。

基礎疾患をもつお子さんが福祉や医療に関わっているのは本当というか当たり前で、医療的ケアが必要なお子さんはもっと深く関わっているし、そうじゃないお子さんたちだって福祉や医療には関わっている。大人だって熱が出れば病院に行くし、妊娠したら医療だけじゃなくって福祉にだって関わる。ここらへんの細かいことは完全に専門外だし、わかんないけど、たぶんみんな生きてれば関わってる。すごく少なくとも一度は関わると思う。だからって、基礎疾患をもつお子さんによく関わるからって、福祉や医療の仕事をしている人「だから」フェスに行かない・行けないってことじゃない。みんな「行かない」って選択をしたほうがいいと思う。少なくともわたしはそう思う。

職場で隣の席の人とか、同僚とか、同じフロアで働いている人とか。学校でも同じクラスとか、隣の席とか、学食でたまたま近くに座った人とか、講義で隣になった人とか。そういった人たちには家族がいる場合が多いと思う。でも、その、自分が関わっている人たち、もしくは関わっちゃった人たち全員の家族構成やら持病やらを知ることはあんまりないと思う。

めちゃくちゃ仲いいです!なんでも話します!みたいな関係はそれでいいと思うけど、そんなに学校上だけの付き合いだとか仕事上での付き合いだとかで「実は基礎疾患があってさ」とか「子どもの心臓に疾患があって」とか、そういう込み入った話ってあんまりしないんじゃないかなと思う。職場の人の話だけど、娘さんが心臓に疾患があるけど、娘さんはそれを彼氏や友だちには話してない、ということを聞いたことがある。あんまり込み入った話ってそういう雰囲気にならないとしないし。わたしも自分から「精神科通っててさ」なんて話はしない。相手にいらない気を使わせちゃうかもしれないし。自分から話す人もいるとは思うけど、それは別件として。

その前提で、フェス行った!楽しかった!仕事・学校がんばろ!で行った人はいつも通りに過ごすとする。毎日変わりなく。それでなんの変わりもなく過ごせてたらいいと思う。でも、フェス行った人が媒体になって隣の席の人、もしくは関わっている人にうつして、その人が感染しちゃったってこともあるかもしれない。行った人が陽性になって、隣の席の人や関わった人も陽性になって……ってことだってあるかもしれない。どうなるかわからないので。それで、もしそこで陽性になった人の家族に基礎疾患があったら。家族が妊娠していたら。まだワクチンを受けることができないちいさなお子さんがいたら。病気の家族がいたら。なんにもなくても、その人の家族が亡くなってしまったら。残された家族がいたら。持ち込んだ人は「そんなこと知らなかった」になるかもしれない。「言ってないから知らなかった」になるかもしれない。

普段から基礎疾患を持つお子さんや医療的ケアが必要なお子さんと関わってなければ知らないかもしれない。でも、世の中にはそういったお子さんがいる。病院の中だけじゃなくて、保育園や幼稚園や、学校、家庭、学童や放課後デイサービスだとか。おんなじマンションにだって住んでるかもしれない。基礎疾患のことばかりだったけど、毎日どこかに出かけたいお子さんや、自分の中のスケジュール通りにいかないとパニックになるお子さんもいる。そういったお子さんが感染したら。お子さんじゃなくて、保護者が感染したら。お子さんは外に行けないと言うことでパニックになって、保護者は大変な思いをする。そういったお子さんや家族と、隣の席に座っている人が暮らしているかもしれない。

「いやコロナが全部悪いじゃん」って言うのはまあそうなんだし、コロナがなかったらこんなことにはならなかった。でもわざわざ自分から感染するかもしれない可能性が高い場所に行って、コロナになって、周りの人にうつすのは違うんじゃないかな、と思う。フェスに行かなかったら周りの人はコロナにならなかったかもしれないし。だから福祉や医療の仕事をしているから行けない・行かない選択をするんじゃなくて、自分以外の人間と関わる人間はみんな行かないほうがいいと思う。わたしも福祉や医療の仕事をしてないし。そうなると、もうフェス自体をやらないとか、無観客で有料配信のみにするとか、そういう手段をとったほうがいいと思う。感染させないために。

わたしがラッドを嫌いになったのも、フェスに来た人が感染して、ウイルスを散らして、そのせいでその人が、もしくは全く違うその人に関わった人が亡くなってしまうかもしれないから。その人がもしラッドのことが好きで、ラッドが見たくてフェスに来たとしたら。その人がコロナに感染してしまった原因のなかにラッドが含まれてしまう。少ないかもしれないけれど、その原因はある。そうなってほしくなかった。感染の原因をつくってほしくなかった。武田と桑ちゃんにはまだちいさいお子さんがいるのになあとも思ってしまう。

今回の日記のことを前回に書けばもっと違ったのかなあと思うけど、それに気づいたのが今日だったので今日書きました。なにかしらの支援が必要な人たちはもっと身近にいるし、関わっている人もたくさんいる。でも見てないし知らない人は知らないままなんだろうな。そういう気持ちで書きました。

好きだったバンドを嫌いになった話

好きだったバンドの話をします。

 

RADWIMPSのことが大好きだった。

はじめて聞いたとき、わたしは14歳で、飛行機の中だった。そこで流れていたのは「25コ目の染色体」だった。

聞いた瞬間に、すぐに好きになった。着いた先で最初にしたことは、CDショップに行って、そのシングルを買うことだった。何回も聞いた。アルバムも買った。トレモロが好きだった。有心論は何回聞いたかわからないし、マニフェストはわくわくしながらCDを受け取って、すぐに聞いた。大学生になって、ライブにも行った。はじめて見るラッドは、キラキラとして、輝いていた。それから毎回応募して、当たればライブに行っていた。いけないときはインスタやツイッターに上がる写真を心待ちにしていた。新海誠さんの映画音楽に使われることが決定した時は、不安もあったけど、嬉しかった。映画も何回もみた。オーケストラコンサートも、とてもよかった。また映画音楽をやると言ったときも、とても嬉しかった。映画のことも大好きになった。上映終了した後は、円盤を買ってなんべんもみた。

ほんとうに大好きだった。一番大好きなバンドだった。SNS野田洋次郎が燃えていても、大好きだった。でもすこしずつおかしくなった。優生思想のときは「それはおかしい」と思った。コロナへの発言ではすこし嫌いになった。なえなのさんとのインスタライブも、15周年のライブのときも、すこしずつ嫌いになっていった。嫌いになっていくたびに、それでも大好きのほうがおおきかった。新曲が出れば予約をして、買って、聞いて、大好きだった。アルバムが出ることも嬉しかった。楽しみだった。今は出かけられないから、出かけたときに予約をしようと思っていた。

だってわたしのことを救ってくれたから。大好きだったから。音楽を聞くきっかけを作ってくれたから。狭かった視野を広げてくれたから。ラッドをきっかけにして友だちが増えたから。いつもそばにあったから。いつも聞いてたから。

でももうだめになった。

今以上に嫌いになりたくなかったから、最近はツイッターのフォローをやめていた。フジロックに出ると言うことを知ったのも、つい最近のことだった。最初は嘘かと思った。でも本当のことだったので、辞退すると思った。関東も新潟も、感染者数も重症者数も増えている。そんな中で対策をしっかりとっているし野外だと言っても、フェスなんてやるもんじゃないだろうと思っていた。年越しのフェスに行ったことがあるからなんとなくわかるけれど、あそこは人がぎゅうぎゅうになるところだった。そこでマスクをしていたところで、絶対になにかが起こる。出演者は免れても、観客は感染してしまうだろう。そう思った。

でもラッドが辞退することはなかった。フェスも中止されなかった。配信を見ることはできなかった。Mステを見ることすらできなかった。ここで配信なりテレビなりを見て、ラッドのことを今以上に嫌いになるのが怖かった。今見たら絶対に嫌いになると思ったから。でもインスタを開いて、全く関係のない好きなモデルさんのストーリーを見て、そこにあった配信画面のスクショでもうだめだと思った。そこにいたのはラッドではなく、くるりだった。これでまだバンドだけを映しているスクショだったら大丈夫だったかもしれないけれど、そこにあったのは観客ごとくるりを映したものだった。そこにはコロナ前に参加したフェスと変わらないくらいの人がいた。

唖然とした。ストーリーをとばすのも忘れて、その画面を見た。いつのまにか違うものになっても、頭に残ったのはそのスクショだった。ぼんやり画面を見ながら、わたしのなかでなにかがだめになったのがわかった。

そのあとはフジロック関係のツイートを探して見た。見たものを、なんとか見間違いだと思いたかったのかもしれない。でもそこにあったのはたくさんの人の写真、マスクをしないではしゃいでいる人の写真、お酒を飲んでいる人の写真、複数人で居酒屋で飲んでいる写真、たくさんの人がぎゅうぎゅうになって音楽を聞いている写真だった。

ラッドのインスタも見た。写真があがっていた。「ありがとう」と書かれていた。それを見て、もうだめだと思った。

今まで何度も炎上してきたのを見ていた。そのたびに嫌いになれなかった。フェスだって、どこかで、大人の事情でしかたなく参加したんだって思いたかった。感染対策もちゃんとしてるんだと思ってた。ラッドのこと嫌いになりたくなかった。今まで全部、わたしのなかでうまい落としどころを見つけてきた。でも今回はだめだった。どこにも納得できるものがなかった。フジロックを配信で見ている人のことも嫌いになった。出演者すべてを嫌いになった。フェスというものも嫌いになった。擁護している人も嫌いになった。参加者も嫌いになった。許せなくなった。ラッドの曲が流れてきて、耐えられなくてとばしてしまった。ラッドの曲を全部消してしまった。苦しくて泣いた。嫌いになりたくなかったから。だいすきだったから。でももう無理だった。

すこし冷静になった今から考えれば、妬みだったのかもしれない。好きな映画もみれない。みたかった映画もみれない。みたかった舞台も、展示も、カフェにも行けない。近所のスーパーでさえ怖いのに、画面の向こうでは自分の好きなことをして楽しそうにはしゃいでる人間のことが羨ましかったのかもしれない。妬ましかったのかもしれない。でももう全部嫌になった。もう好きになれない。曲も聞けない。顔を見るのも、バンド名を見るのも嫌だ。顔を見るのも嫌だ。ファンだという人のツイートも嫌だ。グッズを見るのも嫌だ。全部嫌になった。許せなくなった。出演者もスタッフも参加者も、楽しかった思い出を持って各地に帰るんだろう。そこでコロナになるかもしれない。誰かにうつすのかもしれない。そのとき何を考えるのかはわからない。他人だから。

話が変わるけれど、わたしの職場には基礎疾患を持つ子どもたちが沢山いる。聞いたこともないような病気の子や、心臓に疾患をもつ子や、風邪で入院しなければならないような子もいる。その子たちがもし、万が一、コロナになってしまったら。そう考えるとどうしたらいいのかわからなくなる。現に、コロナ前に風邪をひいて亡くなってしまった子もいる。そういう子どもたちと仕事をしている。

出演者もスタッフも参加者も、フェスを楽しんで、楽しいまま新潟から各々の住んでいるところに帰って、生活をするんだろう。映画をみに行くかもしれない。コンビニに行くかもしれない。学校に行くかもしれない。職場に行くかもしれない。スーパーで買い物をするかもしれない。それはコロナを持ったままかもしれない。風邪だと思っているだけで、実際はかかっているのかもしれない。それで、名前も知れない他人にうつしているのかもしれない。

もしその名前も知らない他人に基礎疾患があったら。家族に要看護の人がいたら。基礎疾患を持つ家族がいたら。生まれたばかりの子どもがいたら。重症になってしまったら。亡くなってしまったとしたら。責任は誰がとるんだろう。誰もとれないと思う。だから嫌になった。許せなくなった。

文字を書いているとき、ずっと手が震えていた。涙が止まらなかった。ラッドの曲を全部消したのに、流れてくるかもしれないと思った。楽しかったのも嬉しかったのも全部ある。嫌いになりたくなんかなかった。ずっと好きでいたかった。一番だと思ってた。この日記にも、ラッドのライブに行ったことが書かれていた。途中まで読んで、読めなくなった。2019年の宮城で、指をさしてもらったことを思い出した。あのときはこころの底から大好きだった。

16年ありがとうございました。

六月四日

六月はわたしのなかでよくない季節で、記憶の中にある六月の思い出は大抵よくないものばかりだ。泊りがけの実習も仲のよくない同級生との実習も熱を出していたのに悪口ばかり言われた実習もおばあちゃんの容体が悪くなったのも仕事をやめたのもはじめて精神科に通いだしたのもぜんぶ六月。なので六月は毎年体調が悪くなる。今年もそれは変わらずで、今が何年なのかわたしが何歳なのか今何をしているのかわからなくなってしまう日が多くなった。薬を飲んでもなにをしてもだめなのでもうだめなんだとおもう。

六月はだめだ。

それはそうと新緑のにおいがわたしは苦手で、それはなんでだろうと思ったときに小学生のときの記憶が出てきた。小学生のわたしは一時間弱かけて学校に歩いて通っていたのだけれど、そのときによく猫がしんでいる道があった。木がたくさん生えていて、少し薄暗くて、小学生ふたりが並んで歩いたら窮屈になるくらいの狭い道だった。その道で猫がしんでいる時期は毎年大抵この時期で、新緑のあのにおいと、猫の腐っていく過程のにおいと、腐りきった後の腐敗臭みたいなのが混ざってなんとも言えない気持ちになっていたのを覚えている。こころのなかでえんがちょをしながら、できるだけ見ないように歩いたけれど、においだけはずっと残っているんだなあと思った。なので新緑のにおいはいいものだと言われてもわたしはいまいちよくわからない。そのにおいをかぐたびにいつも薄暗い道でしんでいた猫のことを思い出す。

最近は自律神経がおかしいと言われてしまったので毎日散歩をしているのだけれど、そこでも動物がしんでいるのを見てあーあと思ったりしている。でも小学生のわたしみたいにこころのなかでえんがちょはしない。ただこころのなかですこしだけ「あーあ」と思うのだ。あーあ。見ちゃったなあ。それくらい。なんにも思わないというのは違うけれど、昔みたいにこころが動かされるようなことはない。ただそこにあるものをそこにあるように感じるだけだ。それは「大人になった」ということなのかもしれないけれど、そうじゃないかもしれない。わたしにもよくわからない。無意識になにも思わないようにしているのかもしれない。つづく。

二月十一日

どうしようもできないことは世の中にごまんとあって、今日は高校生のときの夢を見た。まわりの環境は今のままだけれど、同級生もみんな高校生のときのままで、わたしは高校のときに仲のよかった友だちと一緒に油絵を描いたりキャンバスを先生の目を盗んで取って行ったりしていた。同級生の子もたくさん出てきて、とても懐かしかった気がする。そのなかでわたしは高校三年生の途中から苦手になってしまった子のラインを聞くか聞かないか悩んでいて、今になってはそんなことどうしようもできないし、その子の連絡先を一切知らないので聞くことすらできないことを起きたときにふと思って、それからずっと今日はそのことばかり考えていた。どうしようもできないことが多すぎる。

最近は毎日安定剤を仕事前と仕事中に飲む生活をしていて、こんなんじゃだめだしっかりしないと、普通にならないとと思っているのにどうしようもできない。毎日頭のなかで誰だかわからない人がしゃべっているし、サイレンは鳴っているし、ときどき鳴ってもいない着信音とか通知音が鳴っている気がしてなんべんもスマホを見てしまう。薬を飲んでもどうしようもできないのでお医者さんに言うしかないのだけれど、診察は来月なので今はぼんやりとはやく来月になるのを待つしかない状況で暮らしている。薬があってようやくこの生活で、薬を飲まないで生きていた高校生とか大学生とかのころはどうやっていたのだろうと思ったけれど、あのころは自傷があったのでどっちもどっちだな、と思った。まだすこしの差で薬を飲んでいる今のほうがいいかもしれない。

いっそのこと高校生のときに死んでおけばよかったんじゃないかと思うときも時々あって、だからと言って今からじゃどうしようもできないのでだらだら生きている。高校生のときのわたしはどんなことを思って生きていたのか今じゃ全くわからない。一年生のはじめのころはとても楽しくて、精神はおかしかったけれどなんとかやっていたと思うけど一年生の終わりくらいから三年生のはじめくらいまでの記憶がごっそりないので、たぶんそのあたりで本格的におかしくなったんじゃないかな、と思った。今思い出してもどうしようもできないんだけど。あのときああしていればきっともっとうまくやれたんじゃないかって思うことがたくさんある。そうすればきっと今みたいな生活ではなくて、もっとちゃんとした、まともな生活だったのではないかと思ってしまう。きっとこれからもこうしてしなかった未来について考えていくんだろうなと思うし、でもそれが不幸なことなのかわからないままだ。

そんなこんなで最近は精神が落ち着かない。だめだだめだと思っていろいろなことをしようと思うけどうまくいかない。職場でもいろいろあるし、頭のなかで聞こえる声にも悪口が混ざりだしてこれはだめだな、と思う。だめだな、と思うのに解決方法もわからない。八方ふさがりのなかで、でも来月は推しのライブで、五月にはラッドのライブもあるのでなんとか生きています。生きてさえすればいいので。つづく